稗原小学校の子供たちの住む町名の由来

現在の地名
菅生 すがお 江戸期の下菅生村の一部である。もとは菅生郷という郷村であったらしいが、正保年間(1644〜48)くらいに上下とに分かれたようである。菅生という名自体は、萱の生い茂った地であることにちなむと思われる。
明治8年(1875)に天真寺新田と合併し橘樹郡菅生村となり、明治22年(1889)の向丘村の誕生の際に大字菅生となった。その後大字向ヶ丘の一部を含め昭和61年(1986)に住居表示を実施した。
水沢 みずさわ 江戸時代は、下菅生村の稗原とよばれている場所であったが、湧き水が多いことから、明治5年(1872)の地租改正が行われた際に水沢という字名がつけられた。その後向丘村大字菅生字水沢となり、昭和63年(1988)の住居表示により、大字菅生から独立し、この町名となった。
潮見台 しおみだい 江戸時代は、下菅生村の稗原とよばれている場所であったが、西の端に望遠領という小高い丘があり、晴れた日には横浜の海が見えたということから、この地域の長老が字名として明治5年(1872)の地租改正時につけたといわれている。その後向丘村大字菅生字潮見台となり、昭和63年(1988)の住居表示により、大字菅生から独立し、この町名となった。
菅生ケ丘 すがおがおか 村の入会地であった大野原という地であった。文字どおり、地形からの名と思われる。その後享保年間(1716〜35)に江戸の麻布村にある天真寺により開墾され天真寺新田の一部となった。その後天真寺新田が明治8年(1875)に下菅生村と合併し菅生村となり、その後大字菅生となった。平成元年(1989)に住居表示によりこの名になった。
消えた地名
稗原 ひえばら 縄文時代から山間部や寒冷地で栽培されてきた「ヒエ」が生 えていた土地だったところから名づけられたという。江戸時代には、下菅生村に「稗原」は属していた。その稗原をふくむ一帯を、享保年間(1716〜35)に、江戸麻布の天真寺が買い取り、開墾され「天真寺新田」と呼ばれた。「稗原」の地名は、昭和61(1986)年 の住居表示において「菅生1丁目〜6丁 目」となったときに町名からは消えた
鷲ヶ峰 わしがみね 天真寺新田村の小名「鷲ノ峰」を引き継いだもの。これは仏教の「霊鷲山」(りょうじゅせん、釈迦法華経を説いた聖地)にちなむものである。
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